ソファー
リビングのソファを仰向けに占領している女。目に濡れタオルを乗せてピクリとも動かない。
そして俺は占領されたソファを背もたれにして、床に座ってビデオを見ている。
すぐ後ろに女の足。けだるい昼下がり。
舐めたろか、その指。
なんていつもなら襲いもするのだが、今日はナシ。
何故なら彼女は徹夜明け。
彼女は翻訳の仕事をしている。外国の童話や絵本を日本語に訳して、日本の子供達にも沢山読んで欲しい本があるのだそうだ。
つい最近、彼女の訳した本がベストセラーになった。勿論、翻訳家なんて日のあたる職業でもないのだが、それがボクサー・似蛭田妖と一緒に住んでいるともなれば話は別だ。
写真を撮られた途端にプライベートを暴露され、しかしその反面「翻訳」と言う仕事を「時の職業」とでも言うべき高みにまで持ち上げた。
故に仕事が増えた。本だけでなく、映画なども依頼される様になった。本人のTV出演以外はこなせるだけこなしている。
編集者が原稿を取りに来たのがつい30分前の事。
彼女は疲れている。死んだ様に動かない。
悪い事をしたと思っている。相手が俺じゃなければ以前の様にいつでもアメリカに行って(彼女の親もアメリカにいる)、好きな絵本を好きなだけ抱きかかえて持ち帰り、翻訳しては日本の出版社に持ち込んで出版にこぎつけて、金になるもならないも好きな仕事をさせてあげられたかもしれない。
彼女の左手に光る束縛の指輪…。
もう何年前になるのか、その時俺は駆け出しで若かった。一方的に薬指を奪って、一生を守ってやるだなんて本気で思ったもんだ。
莫迦言ってんじゃねぇよ。惚れ込んでんのはいつでも俺のくせして。
正念場はこれからだ。これからなんだよ。
ビデオでは昨日のボクシングの試合。
そう、あの、一瞬だ。
倒れていく俺。
派手なカウント、無情なゴング。
崩れ落ちた俺の横で、レフリーは新チャンピオンの手を高々と掲げる。
(駄目だな。見てらんねぇ…。)
悔しいと思っているうちは、…相手を認められないうちは、反省なんかできっこない。
じゃぁいつこの現実を受け止められるんだよ?
無様だな。
試合じゃなくて、俺が。
ビデオを止めると画面はTVに変わった。TV番組では綺麗な女優が海外旅行を楽しんでいる。一瞬にしてその黄色い歓声に部屋が包まれた。
「ん…。妖…。」
「(邪子?)」
微かに、本当に微かにだが、邪子が俺の名前を呼んだ、気がする。
しかし振り向いても邪子からは静かに寝息が聞こえてくるだけだった。
彼女は本当に疲れている。
ごめんな。
毛布でも掛けた方がいいんだろうかと思った矢先に、今度はけたたましく電話のベルがなった。
「んっ…。」
邪子は気が付いたのか、目の上のタオルに手をやろうとした。
「いい。俺が出るから。」
俺はそっとその手を取り、タオルから離した。
電話に出ると、ジムのオーナーからだった。「昨日の今日で悪いんだが」と言う前置きの後に続く話は、大体わかっているんだ。
前々から異種格闘技戦への誘いは受けていた。
ボクシングの「ジム」としての「ビジネス」は、視聴率を除いては語れない。
わかっているんだ。悪い話でもない。
「もう少し考えさせて下さい。」
そして、自分がこう答える事も、大体わかっているんだ。
電話を切って後ろを振り返ると邪子は起きてソファに腰掛けていた。
「何の電話?」
「いや、…。」
「どこから?」
「…ん、ジム。」
「妖。」
邪子はまっすぐ俺を見据える。あぁ、この瞳に俺は弱い。
「K-1とかプライドみたいな事をオーナーがやりたがってるんだよ。」
「誘われてんの?」
「ん。」
邪子は少し考えた様に目をそらし、パタンとソファの背にもたれた。
そしてこう、何もかもがわかった様に言うのだ。
「やってみれば。」
「全く、簡単に言うなよ。昨日だって…」
俺はハッとする。
初めて愚痴をこぼした。
体力の限界。いや、違うな。限界は感じてない。
ただ俺よりも体力がある奴がいると言う「事実」だ。
言葉を失った俺に、邪子はスラリと立ち上がってキッチンで紅茶をいれ始めた。テーブルの上に運び、どうぞと差し出して、もう一度訊いた。
「やってみないの。」
「年とったんだよ、俺も…。」
正直くだらな過ぎるこの理由を、邪子はすすっていた紅茶をゴクンと飲んで、
「ははっ、何言ってんのサ!」
と、一笑に伏したのだった。笑い顔がまぶしい。
「あんたらしくない言葉だねぇ、妖。」
「…自信なくなってる訳だよ。俺様としてもさぁ。」
愚痴じゃないつもりだ、素直に本音を口にしている。顔も笑っているつもりだ。だけど本音、それは不安と弱音だった。
「まぁね、解らなくはないよ。ずっとケンカばかりしてきたあんたが、どんなに真面目にボクシングをしてきたかって事は、…解るよ。」
…そうだ、そう…。
俺は初めて真剣に打込んでいる。喧嘩ではなく、スポーツをだ。
異種格闘技、悪い話じゃない。でも俺は、ボクシングと言うスポーツへの道を、これでも真面目に歩んでいるつもりなんだ。
異種格闘技、悪い話じゃない。だけどそれは喧嘩の延長に思えてならないのだ。勿論スポーツではあるが、ボクサー以外とお手合わせ出来るだなんて考えただけでも面白い。
しかし俺は今まで真面目に取り組んできたボクシングをどう考えているんだ?
生きていく事、メシを食う事。
好きで始めたスポーツ。
でも、確かにある、異種格闘技…喧嘩の延長の、頂点に立つ事への興味。
選びたい人生は幾つもある。自分自身どうして良いのか分からない。どれを選んでも満足で、どれを選んでも後悔なんだろう。
紅茶の入った白い食器は白い肌の邪子を美しく際だたせていた。
そして邪子はゆっくりと唇を開いた。
「ねぇ、異種格闘技って、すなわち何でもアリ、なんだろ? ボクサーのあんたが、蹴ろうが寝技かけようがイイんだろ?」
「ん? 多分な。よくわかんねぇけど。」
目を伏せて、邪子は左肘をつきながらつぶやいた。
「…ふふっ…。、もう何年になる? あんたがボクサーになって…。
久しぶりにあんたのキレのある蹴りをさぁ…見たいとも思うよ。」
…あぁ、そぉ?
そんなんでいいの?
「俺、勝てねぇかもよ?」
「勝てるだろ。」
勝利の女神はけだるく微笑む。
幾多の人生を俺は選ぶ事が出来る。満足する事も、後悔する事も。
だが、その中でも譲れない人生はある。満足しても、後悔しても。
俺が女神を手放す事はないだろう。
今日、初めて俺は笑った。ほほの筋肉が自然と上がる。
「はは、俺は寝技の方が好きだぜ?」
「って、妖! ちょっと!」
俺は邪子を抱き寄せてソファーに押し倒した。体重を掛けてキスをする。女神はちょっと呆れ顔だが大丈夫。
このキスは互いが選んだ揺るぎない人生。
ベスト。
拒まない女神の、左手に光る束縛の指輪。
俺が一方的にはめさせたそれを、彼女は気に入っているのか、彼女の薬指をはずれた事はない。
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