エアシップ オン ザ スタジアム (3 東京暮色)
土日は油断して携帯を切るのを忘れていた。
油断していた、と言うのはすなわち土日には普段はかかって来ないという事で、あの男にはいわゆる婚約者と言うのがおるはずなのじゃ。
「今日ユカリと会うんだけど、その前にお昼ご飯でも行かないか?」
日曜の朝、優しく誘ってはいるが、この莫迦男、相当根に持っているな、金曜日の事。
「え、中途半端になっちゃうじゃない? 今度ゆっくり会える時にしよう?」
「ゆっくり会える事なんて無いじゃないか。少しの時間でも会いたいだろ?」
面倒だなぁとは思いつつも強引に押し切られ、スカートをはく。本当は今日も観戦に行くつもりで夏物のパンツを用意していたんだけど、今日は行けそうにないか。
溜息混じりで電車に乗る。昨日とえらい違いだ。
デパートのレストランで会ってみると、莫迦男は普通に振る舞っているかの様に見える。言葉の節々に「全部許してあげる」だの「君が何をしようと僕が止める権利はない」だのと散りばめる攻撃に出てはいるが。
いつからだろう? この人にこんなに嫌悪感を持ち出したのは。春頃から段々ひどくなっている。
私は昔、事務職だった。小さい会社とは言え、営業に回されるなんて前代未聞の大抜擢だ。
ずっと「営業さんて大変だな」って思っていた彼が、急に色あせ始める。
いや、私は営業に向いているとは言い難い。こんな大変な仕事をずっと続けてきた彼は尊敬に値してもいいはずなのだが。
早くこいつ結婚しちゃわねぇかなぁ。
元々この男に女のいる事はわかっている関係だ。「もう会わない」と言ってしまえば終わる関係なんだろう。それをしないのは、私もズルイ人間なんだよね。
楽なんだ。何にも縛られず、ズルズルと関係を持つ方が。
そして、男がいなくなる事が惜しいだけの事で…。
「じゃぁ僕、そろそろ行かなくちゃならない。ごめんな。」
「えっ?」
時計を見れば1時半。
「早いよな、ごめんな…。本当に少ししか会ってやれなくて。」
プレイボールは1時のはず。今から行けばまだ間に合うかも。
「またね。」
そう言ってあたしは走り出そうとした。
しかし莫迦男は私の腕を握り、お手洗いの方へ…まぁ、誰もいない方と言うか?へ連れて行くのだ。
そして唇を押し当ててきた。
トイレの前でかよ!?
莫迦男は体を翻し女の元へ向かう。
そしてあたしは無意識に唇をぬぐった。
「オヤジ、待たせたな。これ、お土産。」
「おぅ、姉ちゃん。おっ?…今日の格好はまた、せくしーじゃねぇの。」
埼玉第2球場に着くやいなや、あたしはオヤジのクーラーボックスを開けて勝手にビールを取り出す。
「もらうよ? あ、それ、新宿百貨店の有名デパ地下餃子。」
あたしはスカートをバサバサとやって、大股を開いて観戦席に座る。
「お、うまそう。」
オヤジはその餃子を1つパクつくと、いやらしく聞いてきた。
「…で、どうだったの昨日は筋と。…ん〜? 朝まで…か? ああん?」
「…酔ってんの? オヤジ。手もつないでねぇよ。」
手「は」つないでない。語弊はあるが、事実だ。
そう、昨日は断じて寝ちゃいない。食事をしたまで。
「…。酔わずにいらんねぇよ。」
「確かにな。」
スコアボードに13対1の文字。
3時を回って到着した球場は、一方的なスコアと打てないへっぽこ選手ども。沸き立つ1塁側応援でムカつく事この上ない。
「何の競技ですか。」
素直な疑問をぶつけてみた。
こんなスコアってあり得るんだ。野球って何点入れたら終わるんだろう。
前の方の女の子達も応援に疲れている。黄昏れた3塁側の応援席に会話は無い。ただ黙々と試合の経過を見守っているだけ。
7回表のレイカーズの攻撃で、ちらほらと声援が起こるが全然駄目。
憧れの筋君が3回バットを振ってベンチへ帰ってくる時に、オヤジの隣に座っているあたしに気がついたらしい。
そして開口一番、こう叫んだのだ。
「そこのお姉さん! 見えるよ!!」
あたしはハッとして、足を閉じてスカートを押さえた。
…いや、ちょっと待て。何? 何を言ってんだ、お前。
「うるせぇ! オンナの股ぐらばっか見てねぇで、ちゃんとボール見て打てってんだよ!」
周りでそうだそうだと笑いが起こった。
そして筋はこう返した。
「ごもっとも!」
周り中が笑いの渦だ。前の女の子さえも「やだー」とか言って笑っている。そして湧き起こるあたしへの拍手の中、「どうもどうも」とあたしも返してるし。
まわりのお兄さんから「お姉さん、何者?」なんて声がかかれば、「高校ん時の知り合い。」と返す。前の女の子達も「えーっ?凄ぉい」なんて言ってるし。
何だか皆と友達になれたみたいだ。
暫くして隣のオヤジは静かに笑う。
「ファンサービス。」
「そうなんだ。」
「筋はそう言うのも解ってるんだ、上手いって言うか…。」
「ああ、学生時代から腕組はサービス旺盛でねぇ。」
「成程ね(笑)。でも、プロ野球選手はファンや子供に夢を売る商売だからね、大切な要素の一つだわなぁ。」
「ふぅ〜ん、夢。じゃぁこの試合、逆転の夢を見てもいいの?」
「自由だねぇ。」
されど逆転なんか出来るはずもなく、試合は大差で負けた。
「今日も行くか?」
オヤジはあたしを誘ってくれた。だけどあたしは、
「いいや。今日は負けたから、会わない。」
あたしは昨日の筋を思い出す。試合の興奮を静かに冷まして行く彼を。あの噴水前の階段での静かな呼吸を。目を閉じたままの静かな表情を。今日はきっと、試合を振り返ってぼんやりしているに違いない。
また会おう、とオヤジは笑って帰って行く。きっとね、とあたしも笑った。
夕暮れの迫る球場で、昨日と同じ風に吹かれている。
今日は何だか疲れたな。莫迦男の相手と負け試合で。
(…勘違いしないでおこう。)
あたしは筋と、勢いで寝てしまった。
あの莫迦男とダブる自分。あたしは筋のオンナじゃない。出過ぎた真似はルール違反だ。
でもそこでオヤジの一言を思い出す。
ああ…夢…。夢を見るのは自由なのか…。
ファンである事は自由なのか、そうか。
追っかけなんてダサい事やってもいいのか、そうか。
あの時、勢いで寝てしまったあの夜は、あたしは筋の事、何にも知らなかった。プロ野球選手だなんて、ましてや1千万もらってるなんて知らなかった。腕組の筋と、御女組の大場が懐かしさに寝ただけの事。
過去は過去だ。経験も1度だけ。
あたしが今、夢中になっているのは「プロ野球選手の筋力」だ。キャッチャーで、体を張ってプレーを魅せる、スポーツ選手だ。
それだけの関係は、続けていたい。ファンでいる事は自由なんでしょう?
20030601 ナガレバヤシ METROFARCE , 東京暮色 , LIMBO島
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