スイート・フォーク・ミュージック
「ってっ…!
何だよ、手ぇあげるなんて最低!」
しかし筋は見るからに本気で怒っていて、あたしも次の言葉が出てこなかった。
「少しは弁解でもしたら?」
そう言って寝室へ入ってしまう。
そう、あたしは明らかに動揺していた。携帯に男の子からのメール。
昨年、あたし達は恋に堕ちて、一緒になろうと約束した。
それは余りにも急で、「待った」をかけたのは意外にもあたしたちを掛け合わせたこの球団の元オーナーだった。1年間シーズンを通して付き合ってみなさいと言われ、あたし達も了解し、同棲生活が始まった。
筋はレイカーズの1軍に滑り込んではいるが、怪我をしていた正捕手が戻って来るので今年は正捕手の座を簡単には手に出来ないだろう。
筋には頑張って欲しい。冬の間も体を整えていく彼を、あたしは一生懸命支えているつもりでだった。
そして開幕、スタメン奪取!
あたしは職場に復帰し、××町に引っ越したため支店へ配属されていた。
元の本社から噂は小さく飛んでいて、あたしがレイカーズの選手と婚約している事は野球を好きな人に知れていた。
客先に一人、パリーグに詳しい男の子がいる。ずっと他の球団を応援していて、でも野球全体が、特にパリーグが好きなんだと彼は言った。
「ええっ? 大場さん、レイカーズの筋と付き合ってるって本当なの? 知ってるも何も、よりにもよって筋!? マジかよ、あいつのリードに何回やられたと思ってんの!」
彼は本当に詳しかった。昨年の試合も何度か観ていて、「あのプレー覚えてる?」とか、「あの時筋が」、なんて話しかけて来るのだ。
「サインもらって来てよ。」
「やだよ。敵にはあげない。」
あたし達はすぐに仲良くなった。接待とか言って、要するに仕事関係で飲みに行く時も話題はそればかりだった。
支店に配属されて数ヶ月。初めてまかされたお得意様だし、飲みに行く機会も多かった。決して2人きりではなかったけれど、いつの頃からかお互いの事を話しだす。恋愛とかの話。
携帯番号を交換する。メールアドレスを交換する。
酔った勢いで、可愛いセリフを吐く。
「ふぅん、大場さん。俺が大場さんのこと奪ったら、野球選手から奪った事になるんだね。なんか凄くない?」
久し振りの感覚。ありふれたリップサービス。
だけど「奪う」なんて単語がこんなにもスリルに溢れてるなんて、ゾクッとした。
「莫迦言ってんじゃないよ。」
そう返すあたしの目はゲームを存分に楽しんでいた。
木曜日はパリーグお休みの日で、練習を終えた筋は飲んで遅くなるあたしよりも早く帰って来ていた。
ソファでくつろぐ彼の横にあたしは鞄を放って、台所で水を飲む。
鞄の中で携帯が鳴った。メールの着信音だ。
あたしは動揺していた。
いつもなら「後で見ればいいや」と放っておく筈のメールを慌てて見に行く。
筋の隣の鞄から見られてはいけないとばかりに携帯を取り出し、でもあたしは動揺していた。
手が滑った。ゴトンと携帯は床に落ちる。
慌てて取ろうとするあたしの前で、筋はゆっくりと立ち上がって携帯を拾った。
着信画面に男の子の名前。
「…。」
真っ直ぐにあたしを見て、あたしに携帯を差し出す。
あたしは明らかに動揺していた。
筋は、迷わずあたしを叩いた。
寝室に戻る彼に「何もしてない」と言えばいい。本当の事だ、弁解なんかじゃない。
だけど悔しかった。
筋は野球選手で、あたしはただの会社員で、少しくらいドキドキする事があってもいいじゃない。あんたは毎日女の子の声援を受けるような舞台にいて、でもあたしは男の子と飲みに行く事すらいけないって言うの?
だって、あんただって絶対遊んでるに決まってる。
それを容認しつつあたしは貞淑にしてるだなんて、気がおかしくなるよ。
あたしがいけないの?
金曜日は大阪でナイターで、あたしが会社に行った後、筋も大阪へ移動する事になっていた。
いつもの朝を迎えて、でも会話は無かった。
最低限の挨拶で家を出る。
仕事はさして忙しくもなくて、そう、例の彼とメールでやりとりなんかして退社の時刻を迎えた。1分の残業も無しで帰宅する。
帰るとすぐにあたしはTVをつけた。5時半すぎ。そしてビデオの用意をする。
家にはCSが入っていて、レイカーズの試合は全部放映される。全試合ビデオをとるように筋からお願いされているのだ。
今朝はあんなだったので予約録画をしていなかった。これで間に合う。
試合の15分前から中継は始まっていて、あたしはビデオの録画ボタンを押すと裏で他のチャンネルを見ようとした。
その時、スタメン発表が画面に映った。
昔はドキドキしていた。「今日は彼の名前は発表されるのか?」
でもこの頃は発表されて当り前になっている。
8番、キャッチャー、筋力。
彼は昇りつめていく。正捕手の座に向かって。
もう知らない。6時だ。ニュース見よう。
試合が始まる。知らない。あぁそうだ、ご飯の用意でも。
試合開始、レイカーズ、良い所無しでチェンジ。
その裏の相手の攻撃で先制点をとられる。ザマミロ。
なおも相手の攻撃は続く、その時解説者は声をあらげた。
『何でしょう、今日の筋君は。カバーに入らない気ですかね。』
この解説者はレイカーズのOBで、でもレイカーズ一辺倒の解説にならない所がパリーグファンの中でも好感を持たれている。その解説者はストレートに筋を叱った。
『キャッチャーってポジションは意外とハードなんです。筋君は基本に忠実に動く選手なのですがね。ここ最近は正捕手として定着してきましたから気がゆるんでいるのでしょうか。ここで気を抜いてはいけないのですが。』
カメラは筋をアップでとった。
選手が叱られるのなんて日常茶飯事だ、筋だって何度も叱られて1軍にいる。
だけど叱られるのは今のあたしには面白い。ザマミロだよ、ほんと!
2回表、レイカーズは1点を返す。あたしのような素人目には2対1、1点差なんだからいいんじゃないのって思うんだけど。
その裏・相手の攻撃、エラー絡みで満塁、そんな時にだ。
後逸!
キャッチャー後逸で1点。その後もボロボロと打たれて相手に点が入る。
『レイカーズのピッチャーは外国人投手の中では穏やかな性格なんです。でも今日はピリピリきて当然ですよ、筋君のリードもどうかと思いますし、決め球を後逸されては投げる球も無くなりますからね。』
いい気味。
2回終わって8点差。大量失点もいいところ。
3回にチェンジする時にベンチの中の様子がTVに映った。筋が監督やコーチに叱られている様子だった。
いい気味!
そして筋の打順に回る。
『筋君はそりゃ怒られて当然ですねぇ。早々に変えられるかもしれません。あっ、やっぱり代打ですね。』
早々に出て来た代打の選手も三振。
いいとこなし。ベンチに漂う暗いムード。
TVは今日の戦犯、筋を映した。
その目は、反省と、…、何を見つめているのか…。
試合終了までの長い時間を、彼はこのベンチで過ごさなければならない。
筋。
大阪まで新幹線で3時間。最終。
あたし…莫迦なのかも。
筋とは少しだけ、昔話をした事がある。
昔話、お互いが別の道を歩いていた頃、どんな人と付き合っていたか。
「別に普通だと思うよ」と筋は笑ってごまかして、「本気で付き合ったのなんて君が初めてだよ」とあたしを有頂天にさせた。
でも…お友達選手さんに聞いたよ、あんたはモテるってさ。
…モデルと付き合ってたんだってね。
あたしだって色んな男と付き合ってきた。…普通の男。
モデルと野球選手って凄くない? 王道って言うかさぁ。どうして別れちゃったのかな。
あんた、ちょっと口うるさい所あるもんね。
あんた、鈍感って言うか、髪を切っても気付いてくれない事もあるしね。
あんた、怒ると何も言わなくなるもんね。
しびれを切らしたのは彼女の方かしらと思う。筋、あんた、去る者は追わないんでしょう。
いつでもクール。野球に夢中で。
あんた、野球すると、あたしなんか見向きもしないし、ね。
皆の筋。筋選手。レイカーズの筋捕手。
黄色い声援。
…掃いて捨てる程。
去る者、追わず。
新大阪の駅に着くと、すぐさまあたしは電話をかけた。
お願い、出て。
無視しないで。
野球の試合は終わったでしょう?
野球以外はあたしを見てよ、かまってよ!
追い掛けてよ…あたしを無視しないでよぅ…。
「…もしもし? …どうしたの、こんな時間に。」
筋はぶっきらぼうに出て、でも、優しかった。
ぎこちない雰囲気を消そうと、昨日の事をわざと無かったように話す。
「…今日の試合もちゃんとビデオに撮ってくれた? 負けたよ、今日は。」
「ううう、筋、会いたい、会いたい…。」
「あはは、会えないでしょう。…後ろが騒がしいけど、外にいるの?」
「新大阪にいる。」
「は?」
「会いたい…」
ぐちゃぐちゃだ。
「どこにいるの! 新大阪って…本当に?」
「会いたい、どこにいけばいいの?」
「何口にいるの? そこからホテル見える?」
「見える。グランドなんとかホテル。」
「…わかった。動かないで。」
新幹線はもう東京には行かないけれど、まだ最終が残っているようで、改札口はその案内をしていて混雑している。
その混雑を避けるように多くの人を避けながら、筋は走って来た。
あたしも走った。そしてその胸にかまわず飛び込んだ。
筋も、力強く抱きしめてくれた。
「君…、どうして…。」
「なんにもしてない。本当。ねぇ、何もしてない。」
「…。」
「あたしが筋と付き合ってるって言ったら、凄いって言ってくれただけ。」
「…。」
「っ、ちょ、ちょっとだけ、浮気したら野球選手から寝取った事になるねって、そんな話をしただけ。」
「寝取った、って何。君、寝取られる気満々な訳?」
「ううん。筋以外の人に言われてドキドキしちゃっただけ…。だって知ってるもの、…筋以外の人としても、気持ちよくないって知ってるもの。」
「あぁ、前科あるものね、君。…もう、君は僕がいないと本当にフラフラフラフラフラフラと…。」
『なぁ、あれ、レイカーズの何とかって選手じゃねぇの?』
『あ? そうだよ、そうそう。キャッチャーじゃねぇ? 筋、とかじゃなかったっけ?』
試合を見に来てた人が食事でもしてたんだろう。今から帰るって時に選手を見かけた、しかも女と抱き合っちゃってる。
「! ごめん、筋、いいよ、離して。ばれちゃってる。駄目、ごめん。」
「いいよ。ここでキスしてもいい。」
そう言って更に強く、筋はあたしを抱きしめた。
「莫迦、駄目だよ。筋…」
「同じ事だよ。今ここで君を離しても、女性を泣かしてたって言われるだけだって。」
「…泣いてるかな、あたし…。」
「その顔何回見たと思ってんの。鼻水でもなんでもいいから早く拭いてよ。拭いたら、うーん、どうするかな。最終ももう無い。君、帰れないんだよ? 分かってるの?」
「う…」
筋は溜息をついた。
「…宿舎のホテルの…ダブル、空いてるかどうか聞いてみようか。」
「(ずずずっ。)」
「ダブル。分かる? 一緒に泊まるんだよ。寝取られる前にシルシを付けとかないとね。僕のものだって。」
「…え?」
「明日も朝早いから、早くホテルまで行こう。」
ぽかんとしているあたしに、筋は続けた。
「…君が言うほど僕は暇じゃないんだよ。浮気する暇もチャンスもない。12球団一、クリーンな男だと自負してる。」
「筋…。」
「ああっ! もう泣かないの! あぁもう…。」
もう一度ぎゅうと抱きしめて、筋はつぶやいた。
「ずるいよ、君ばかり。簡単に他の男と話すなよ。」
あれ? それって…
「野球をしたいんだよ。君の事で頭が一杯じゃ、試合に集中できない。」
「ねぇ筋、それって、やきもちなの、かな…」
「言わすなよ!」
筋…照れてるの?
モデルちゃんはさぁ、自分が綺麗だから、とっとと他へ行っちゃったんじゃないかな。あたしはあんたを追い掛ける事しか出来ない普通の人間だから。
だからわかるの、あんたの心。
「野球をしたいんだよ。野球しかできないんだ。そんな事、ずっと昔から知ってる筈じゃないか!」
…うん、知ってるよ。あんたは昔から腕組で…。
スポーツしか出来ない奴だった。
あんたが野球をやってる事があたしの誇り。
『筋ィ! 明日もよろしく頼むよ! ハハハ!』
相手チームのファンだ、今日の戦犯をからかう。
だけど、もう大丈夫。筋はあのいつものクールな溜息をついた。
「その帽子! 明日はレイカーズのキャップで宜しく!」
筋は彼の帽子を指さした。
相手の男の子達は驚いた表情で、でも嬉しそうだった。(そりゃそうだ、なんたってプロの選手と話しているんだから!)
「そりゃできねぇよ、生粋の大阪人や!」
筋もあたしを抱いたまま、腕組ならではのサービス。
「そこを何とか! 一生に一度位はどうにか応援して下さい。」
大阪の男の子達は「しゃぁないなー」と笑いながら改札をくぐって行った。
ひと騒動ついて、筋はあたしに話しかけた。
「君はどう思う? 明日は僕がスタメン、いけると思う?」
「ん…、明日の先発は若いから、若いキャッチャーを使っても勉強にもならない。かと言ってベテランは打率もイマイチだし、出来れば抑えに使いたい。うん、やっぱあんたじゃないの。」
野球の話をした。
筋はクールに笑った。
「正解。」
雲童にも負けないあんたの自信。腕組の名残、そして今、あたしの誇り。
行こうか、と、あたし達は手を繋いだ。
大きい手。自信に満ちたキャッチャーの手だ。
大好き。
「ねぇ筋、前科とか言うけど、あたし浮気してないよ。あの頃はあんたじゃなくて他の人と付き合ってた訳だし…」
「僕と会ってる時の方が楽しかったんでしょう? 立派に浮気だね。」
もう! あんたの自惚れときたら、たまらない。
「何それぇ。」
あたしは笑っていた。
「…まぁいいよ、その言い訳、後でゆっくり聞く事にするよ。」
憮然とした表情の下に、あんたの本音がある事を知っているのはあたしだけだと思う。
「そうね。どの位愛してくれるのか、楽しみだわ。」
いつまでもこの大きな手を独り占めしていたい。
「厳しいねぇ。」
筋は笑った。それはいつもの優しい瞳で、白い歯を覗かせながら。
沢山シルシをつけてね。あんただけの、あたしにしてね。
20040307 ナガレバヤシ 真心ブラザーズ , スイート・フォーク・ミュージック , B.A.D.
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