エアシップ オン ザ スタジアム (8)
日曜日、実家からアパートへの帰りにもドームに寄ってはみたものの、あの駄目軍団は勝つことが出来ずに旅立って行った。
帰って来るのは8月も終わる頃だ。「頑張って」の一言も掛けさせてくれない。
あーあ、早く勝ってよね。電話したい。声が聞きたいんだから…。
その代わりに仕事は段々と忙しくなっている。私も営業として少しは評価されているのかな?
そんな中、必然的に顔をあわす事の多くなってきた人物がいる。
営業の先輩でもある、あの(莫迦)男だ。
残業が一緒になることもあれば食事を一緒に取る事もあるし、付き合いが多くなるのは仕事上でも当然だし、そしたらその後は…。
「加代。加ー代。な、久しぶりに…なぁ…。」
自分も莫迦です。
寂しいとか言う安っぽい感情が自分の中にある。裏を返せば男が欲しいだけなのに。
(筋に悪い? 何で? 私が誰と寝ようと、筋だって関係ないと思っているよ。私だって、筋が誰と寝ようと構わない。)
目一杯大人ぶって他の男を迎え入れる。
…はっ。子供返りかよ。
筋と違う指で感じる訳ないっつの。やってみて初めてわかるなんてな。
心の目を閉ざせ、男が欲しいだけなら。
あたしはマナーモードの携帯に今日の勝利を祈っている。
一週間が過ぎた。メールはしたけど、声は聞いていない。
でも何と、首位を争うチームとの試合がNHKで放送される事があったのだ。
「レイカーズは疲れていますね、本拠地を離れて顔が暗いですよ。」
解説の人は言う。シーズンも後半に入って、どうやら疲れのピークらしい。
今、注目の選手としては、外野手に1人、捕手に1人。
その捕手のリードは「若々しい発想」ではなく、どちらかと言えばセオリー通りの「理想論」である事。投手の調子が良いなら通用するだろうが、もっと人間的な、臨機応変なリードを心掛けなくてはならない事。
その捕手のバッティングはバントも出来れば長打も期待出来る、オールマイティーな人材である事。
その捕手は、昨年までの監督と馬が合わなかった事。
そして、その捕手は高校時代、セリーグのエース・雲童塊とバッテリーを組んでいた事。
あたしよりもずっと詳しい解説者。あたしは初めて「筋捕手」をブラウン管で観たのだった。勉強になるけど、これ以上筋捕手のファンを増やさないで欲しい。だって一番カッコイイんだもの。
そうか、筋、疲れているのか…。(そりゃそうだよね、1軍に上がって間もないのに遠くに行っているんだから。)
それでもメールはくれるんだ…。
…嬉しい。
これからはあたしから、絶対あたしからメール入れよう。
支えてあげたい、なんておこがましいかしら。
でも、どんどん離れて行く。あたしと、筋。
ブラウン管の中で…、…彼は、スクイズを決めた。
そして、ある日、変な事が起こった。
普通の朝だ、会社で、おはようって。本当に普通の、私がお茶当番なだけで。
「俺、結婚しようかな。」
…?
ん。この莫迦男(にお茶を入れた訳です、要するに。)、結婚すんのか。
あの、なんだっけ、えっと、ユリカちゃん、だっけ?
「あぁ。おめでとう。」
悔しいと言えば悔しい。それは筋があたしの傍にいてくれないからだ。
傍にいてくれる男はこいつだけだからだ。
でも結婚するなら仕方ないだろう。私ももうこんな関係やめよう。
「違うって。俺、お前と結婚しようかな、って。」
「はぁっ!?」
「結婚してやる、って言ってんの。どうよ?」
「あ、あんた、ユカリちゃんどうしたの!?」
莫迦男は言葉を濁した。
「…お前の方が合ってる気がして。」
…んぁぁ?
「お前、あのプロ野球選手と付き合ってんのか? なぁ、本気でか?」
「何言ってんの? そんな訳…。」
「何かさ、惜しいんだよ。お前をくれてやるのがさ。すっごく、悔しいんだよ。お前を誰にも盗られたくないんだよ。」
はぁぁぁぁぁ!?
「俺の事、嫌いって訳じゃないんだろ?」
「…。」
私は何も答えられなかった。
始業のベルが鳴る。
彼と私の関係は「先輩と新人営業」に戻る。
…結局、だよ。
ユカリちゃん?ユリカちゃん?と何かあっただけじゃないかな。んで私にその矛先が来ただけなんじゃないかな。
でも、私も…いつまでも筋の事を想ってなんかいられない。
ここで決めるなら決めなくちゃいけないんだ。
筋とは一夏だけなんだよ。来年からはあいつも1軍定着するだろうし…。
…。なぁんて…、未練、だな。
沢山考えたんだけど、そして「夏が終わるまで待って」って言おうとしてるんだけど、なんだか言えない状況のまま日々が過ぎていく。
どこまで本気なのか確かめようとも思っているんだけど、それすらも面倒臭くて…、すなわち、メールを打つ時間の方が大切で…。
8月も終わる頃。
レイカーズの月火水の3連戦は同じ関東の千葉で行われていた。
そして、そう、やっとです!
今日・水曜日の試合が携帯に配信される。ドームに帰る金曜日につなぐ「いいムード」で終了されるや否や私の携帯が鳴った。
「帰るよ! 今から会える?」
「はいよ、おめでとさん!」
筋に言っているのか、あたしに言っているのか!
筋に会える! この日をどれだけ待っていたか!
試合時間は今季最短の2時間28分。
11時には私達は既に、繁華街で食事がてら飲んでいた。
「この間TV見たよ~。いいとこ見せたじゃ~ん。」
「あぁ、NHK? ありがとう。」
「理想論で野球やってるって、怒られてたよ?」
「そう?(笑)。だって高校ん時はセオリー無視のピッチャーだったからねぇ。」
「あはは、雲童!」
学生の時の話と、今現在の話が入り交じる。全て「あたし達の話」。楽しい。
勿論、あたしは饒舌だ。筋に、あれも言いたい、これも話したいが募っている。
「実はね…あたし、ドームにも何回か行ってるんだよ。」
追っかけなんて恥ずかしいトップシークレットも口が軽くなってしまう。あんたに会いに行ったってアピールしたくて仕方がないみたい。
「本当? ありがとう。」
「目の前にファールボールが飛んで来てさぁ、初めて会った時みたいだった。」
「僕の?」
「そうだよーぅ。外野の兄ちゃんが、『こっちだろ!』って。面白かったー!」
「はは、ファンの人って面白い人がいるよね。」
カウンターの席で2人並んで、笑い声は絶えなかった。
「ね、ファールボールってもらえるんだね! サインとかしてもらえるの?」
「ファールボールにはもらえないねぇ。サインボールが欲しいの? 欲しいならもらってあげようか。誰のサインが欲しいの?」
「うーん、やっぱ、オガサワラ選手かなぁ?」
「もらえないよ! はは、まだまだ僕なんか話しかける事も許されない選手だって。もっと若手の選手にしてよ(笑)。」
「ええー? 誰がいるのよ~。いいよ、ホームランボール狙うからぁ(笑)。」
すると、筋は笑いながらゆっくり、左腕をあたしの肩に回した。
えっと…、これは…。
あたしは筋の腕の中で、カウンター前の紙ナプキンを取って、鞄からサインペンを取り出した。
「はい、じゃ、練習しよっ? 筋選手、サイン書いて下さいっ!」
「ん~、僕はねぇ…、背番号書いときゃいいかなって…」
キュキュッとでっかく54。
「これじゃぁ、わかんないじゃん!(笑)」
「わかるでしょう! 54! アラビア数字だし!(笑)」
もうこいつ、本当に…、おかしくて、嬉しくて、涙が出ちゃう。
「…大場さん。もう一杯飲んだら、出ようか。」
サインペンを置いて、筋は左腕に力を入れた。
店の外は雨が降ったかの様に蒸していて、これは今夜も熱帯夜なんだろう。
そんなに暑い夜なのに、あたし達の体はぶつかりながら、くっつきながら歩いている。帰る前に散歩でも、なんつってみたりしてさ。散歩って、こんな繁華街をか。なんだかきっかけのつかめないあたし達だこと。
それもまた気持ちがいい。こうやってウダウダ歩くのが気持ちいい。
どこへ? …さぁ、そんな事は。
一歩、路地へ入り込んだ。
筋はゆっくりと、あたしの腰に手を回し、あたしの体を筋の方へ向かせる。
足を止めて抱き合って、唇を合わせた。
外人にしてみればきっと挨拶程度のキス。だけどあたしは日本人なので、筋の唇が自分の唇に触れているだけで天にも昇る気持ちだ。
一度唇を離し、顔の角度を変えてもう一度唇を合わせた時、今度は微かに唇が開き、筋の体温が…、筋の体の中、が、微かに見え隠れした。
信じられない…。舌を絡ませもしないキスで、こんなにもあんたを欲しがってるなんて。あんたの中に舌を入れたいよぅ…。
唇が離れて、あたしはまぶたを開けた。酔って狭くなった視界にはあんたしかいない。あんたしか見えない。
筋はあたしをじっと見つめている。そして、おでこにキス。
あたしは囁く様に訊いた。
「酔ってるの?…」
筋も、囁く様に答える。
「…君にね。」
急にぎゅっと抱きしめられて、しかし筋は急に笑い出した。
「って、似合わないか! ははは、経験不足だねぇ!」
あたしも筋の胸の中で一緒になって笑う。
ひとしきり笑った後も、筋はあたしを離す事はなかった。筋の心臓の音が聞こえる。
心地いい。
あたしは筋の胸にすっぽりと、こんなにも凹凸の合う男っているんだ。
ねぇ、言ってしまおうか。
酔った勢いで、当たって砕けてしまおうか。
「…筋、あ、あたしね、あんたの事…好…」
「あれ、何だろう。」
およ。何故セリフの途中でさえぎるか。
すると左後ろでガシャン!、とビール瓶のぶつかる音がする。
『やめてよ、わかったわよ、私が悪かったわよ!』
『開き直ってんじゃねぇよ!!』
…。ケンカかよ。
あたしは筋の胸の中から左を向いた。
2人のイカレた格好の男の子が、1人のコギャルに詰め寄る。
あぁ、足下にビールケース。蹴りでもしたんだろう、ビール瓶は辺りにゴロゴロと散らばっている。
『どうなんだよっ! ふざけてんじゃねぇぞ!!』
『痛い! 腕つかまないでよッ! いいじゃん、もう!』
「…察するに、フタマタの終焉ですかねぇ。」
筋はやれやれと溜息をつく。あたしはその、いつものクールな溜息に笑ってしまった。そして筋はあたしの方を見る事もなく、彼らを見ながら言うのだ。
「どうしましょうねぇ。」
昔、あたし達は名物集団で、中でもあたしはケンカ上等な集団にいた。でも思い起こせば腕組だって、ケンカ騒ぎは好きだった筈だ。中学の修学旅行の他にも、確か何度か一緒になって騒ぎを起こした覚えもある。
結局お互い、ヒーローになるのが好きなのよ。
「あ、やばいよ、あれ。」
1人の男の子がビール瓶を拾った。
そしてあたし達は顔を見合わし、昔の名物集団に戻る。
「はいはい、待った! お兄さん、駄目だって!」
『あんた達に何の関係があんだよ!』
「関係はないんだけど、ビール瓶はまずいでしょう。」
流石はスポーツ選手、ガタイからして話にならない。男の子のビール瓶を持つ手を押さえる。
「ドリフのコントじゃないんだから。落ち着きなさいって。」
あたしが腕を組んで言うと、女の子も『あぁ、もう』なんて言いながら髪の毛を整えている。コラコラあんたのせいだろう。
『ふざけんなって!』
もう1人の男の子は筋には勝てないと判断したのか、事もあろうにあたしの胸ぐらをつかもうとした。あたしは手をつかみ返してひねる。
あ、筋、笑ったな。
『ってぇな! 痛ぇよ、ざけんな、放せよ!』
「ん~もう。なんなの、あんたから手ぇ出して来たくせにぃ。」
あたしは手を放してやった。するとこいつ、すぐさままたあたしの胸ぐらをつかもうとするのだ。なんじゃ。あたしはまた同じ様に手をつかみ返しひねる。
『痛ぇ! ふざぁけんな! 放せ! 痛ぇよ!』
「ふざけてません。学習能力の無い奴だなぁ。」
隣には声を上げて笑う筋。筋のお相手も暴れようとはしているが、腕力じゃ敵わない御様子。ふぅん、筋、強くなってんじゃないの。
目の前の男の子は反対の手であたしに殴りかかる。手を放してあたしは逃げた。執拗にあたしを追って手も足も出してくるんだけど、「そんなんじゃ当たらないよ」程度の攻撃で反撃するのもかわいそうな位だ。そのうち転がっていたビール瓶を踏んで、バランスを崩して男の子は無様にこけた。
そして筋も、暴れる男の子をその上にねじ伏せた。
なんつーか、ケンカにもなってないんだけど、勝負あったでしょう。
「ビール瓶片付けて、話し合うなら話し合いなさい。あなたも。」
あたしは女の子に振り返り、叱った。
…考えてみれば、あたしはこの時初めて敵に背を向けたのだ。
『ふざけんなアマぁぁ!』
咄嗟に振り返るも、まだ持っていたのかそのビール瓶は空中から振り下ろされる瞬間だった。
視界に筋の、あの大きな手のひらが見えた。
!
「…筋。筋!」
道に崩れる筋に駆け寄ったあたしは何度も名前を叫ぶ。
「筋!!」
周りがどよめいている。
「け、警察だ~」
「違う! 先に救急車を呼べッ! お前ッ!」
あたしは観客の1人を指さして叫んだ。
殴った本人は腰を抜かしたのか、へなへなとしていた。手元に落ちているビール瓶を見る。割れていない、すなわち鈍器のままだ。殴って割れたなら衝撃も拡散しているはずだ。割れていない。
『ねぇ、ちょっとぉ、やばいんじゃない?』
女の子は青ざめながらも筋を揺り動かそうとしていた。
「触んなッ! …動かすな。」
頭、だ。
ケンカ好きなあたし達も、それだけは御法度だった。
程なくして救急車も警察も来た。
あたしは先に病院まで付き添い、その後警察に出向いて事情を説明する事にした。
救急車に乗り込む、その時だ。
『なぁに? 私のせいなのぉ? どうしてぇ? …私がいけないのぉ?』
あたしは振り上げた右手を、止める事が出来なかった。
20030701~20030709 ナガレバヤシ
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