エアシップ オン ザ スタジアム (5)
オールスターが明けて、梅雨明け宣言、初めての日曜日。あたしはまた2軍の試合に足を運んでいた。昨日は土曜出勤で来れなかったのだ。
「姉ちゃん姉ちゃん!」
何だろう。ほくほく顔のオヤジと、フェンスへばりつきお嬢ちゃんズ。
「ダブルヘッダー!」
はて、また新しい単語が。
ダブルヘッダーと言うのは、公式戦の試合の日程が雨などで延期され予備日を越した場合、シーズンの終盤に来てデーゲームとナイトゲームの2試合を行うことらしい。
「まだ7月なんだけど。しかもここ2軍だし。」
「違う違う。筋、ベンチ入りだよ。」
んんん? 難しいです。何言ってんの?
「1軍のナイトゲームに出るの。」
「んはぁっ!? 1軍登録って事!?」
ここで言うダブルヘッダーとはファンの造語で、筋捕手が2軍のデーゲームに出場した後、1軍のナイトゲームに出場する事を言うらしい。
「ってゆーか、私達ファンが2試合はしごする事を言うのよ〜!」
もう、お嬢ちゃん達、きゃぁきゃぁ。
「1軍のキャッチャーが故障。怪我だよ、怪我。まぁ、チャンスだけど、ベンチ入りだけだろうな。」
「オヤジ、嬉しいの? 嬉しくないのっ!?」
「そりゃぁ…なぁ!」
キャーッと歓声を上げて、沸き立つあたし達。
うるさいなぁとグラウンドに出て来る筋は、いつもの様に仏頂面で。
プレイボール!
久しぶりだね、筋。そしておめでとう。
その日のデーゲームは快勝で、夕方からあたし達はドームへと乗り込む。
でもオヤジは来ない。心の中で、公式戦には行かない事にしているんだって。
「筋が2軍に戻る事になったらまた会おう。」
「それは会えなくなるって事?」
「だといいねぇ。」
笑って別れた。だって2軍球場は会社の近くなんだもん、会おうと思えばいつでも会えるっての。
「でかっ…。」
これが最初の印象だった。
あたしは公式戦と言う物に来た事どころかTVで見た事も無い。(だってそもそもパリーグってTVでやってないじゃん。)
そう言えば最初に行った埼玉の、第2球場じゃない方もでっかいドームだった。1軍と2軍ってこんなにも待遇が違うのか。入場料も高いはずだ。
鳴り響く応援は大きい音を出していて、腹に響く。
いつも2軍の球場で好き勝手に座っていたから、こんなに遠くから観戦するのは初めて。ホームゲームだから1塁側。外野自由席。選手が小さいや。
ゲームは淡々としていて(良く言えば投手戦)、相手のチームを打ち崩せないのだから筋にも出番が回ってくる事は無かった。
女の子達はそれはそれで他のアイドルがいて楽しんでいるからいいし、あたしはあたしでビールの売り子さんを発見し、「これがあたしの思い描いていたプロ野球観戦だよ」と初めてのドームを楽しんでいた。
ゲームが動いたのは7回裏。ノーアウト1塁で、代打に筋。
「えええーーーっ!? こんなところで???」
ただしその理由はすぐにわかった。
バントだ。
レイカーズ1軍はバントがひっでぇへったくそ。今日当たっていない選手をひっこめて、確実に塁に進めようと言う作戦だった。
筋は当然の様にバントを決める。
「いやぁぁぁ〜ん! かっっっっこいいーーっ!」
ここの一角、大拍手でした。あはは、自分でもやれやれです。
ところが1点をもぎ取った直後に事件は起きたのだ。
キャッチャーはそのまま代打の筋に変わっていた。
2アウトながらも1,3塁。
そこで1塁走者が走り出す。まさか、意表をつかれた盗塁。
ピッチャーからボールを受けた筋は、すかさず2塁へ投げる。
…あっ!
2塁への送球はそれてしまい、カバーの選手のグラブが届かない。
沸き起こる声援、ボールはセンター前まで転がって、同点。
暴投。
かたずを飲んで見守るも、あっという間にヒットを打たれて逆転された。
そしてレイカーズは負けた。
8回表。たった1つの悪送球が試合を決めた。
やりきれない気持ちであたしはアパートへ帰って来た。
(筋のせいで試合を落とした…。)
大きなドーム、1軍というプレッシャーの中で、エラー。
…筋、がっかりしてるだろうな。今シーズン初の1軍登録だったのに…。
私もショックだ。あのシーンが頭から離れない。
気になって仕方がない。
午後11時半。
…まだ、寮に住んでるんだよね、2軍球場近くの…。
私はルールを破った。
「…もしもし?」
「…大場さん? うん、そう、こないだ一緒に飲んだお店だよ。…うん? まぁね、そりゃぁ……酔ってるよ…。…、ねぇ、…おいでよ。」
電話越しに聞く筋の声。
会いに行かなくちゃ。
あたしは終電間際の電車に飛び乗って、筋の飲んでいるお店へ向かった。
「あ、加代ちゃん、こっち。」
筋のお友達選手さんが静かにあたしを呼んだ。(おろ、名前覚えられてるよ。)
「筋。」
お店の隅の席で、カウンターに右肘をついていて、筋はこっちをちらりと見ると、左手で隣の椅子に「どうぞ」とやった。あたしはお友達さんに「代わるよ、大丈夫。」と言って席につく。
筋は何も話さない。
あたしも何もしゃべらない。
カクテルを一口飲んで、あたしがグラスを置いた時、筋は左腕で急にあたしを抱き寄せた。
「あっ…と、え…?」
あたしは椅子からずり落ちて、筋の胸に捕まろうとする。
唇を奪われた。
痛い痛い痛い。この体勢辛いよ。
なんとか足を地面に着いて、あたしは筋の胸を押した。唇が離れる。
「あ、あんた、誰かに見られたらどうすんの。」
筋はプイッと、また右の肘をついた。
…はぁ、仕方ないなぁ。
あたしは筋の左手に、右手の指を絡ませた。
「ホテル、行こう?」
久しぶりだ、筋の厚い胸。
あたしは先に一糸まとわぬ姿になり、筋の服を一枚一枚脱がしてゆく。全てを脱がし終わったところで、あたしは両腕を筋の首にかけた。
そして御女組さながらのセリフで筋を誘う。
「…あたしを好きにしてごらんよ。」
筋はあたしをベッドに押し倒し、むしゃぶりついてきた。
ふふ、嬉しい。
このガタイの大きな男が、子供の様にあたしを求めている。胸を揉みしだく大きな手、日に焼けた首筋、惚れ惚れする筋肉。
「あ…ん、んっ。」
凄い、野生の獣みたい。
「あ、痛ぁい、や、んっ。」
時に乱暴に、あたしの体を好きにする。
…そう、あたしを征服する事で自信を回復するがいい。
だけど、段々、筋の動きが鈍くなってきた。
「…。」
「…? 何? どうしたの…?」
全てを止めて筋はうつむき、小さい声で言った。
「ごめん…、駄目だ…、…勃たないや…。」
…え…と。
突然あたしはぼとぼとと、大粒の涙をベッドに落とした。
色んな感情が堰を切ってあふれ出す。
「あぁ、違うんだ、君に魅力がない訳じゃなくて…。」
「違う…!」
あたしはいたわる筋の手を払いのけた。
「違うの、筋、筋、ごめんなさい。」
あたし、この人を何だと思っていたんだろう?
プロ野球選手。
それって、自分がミスした後も動じない程の強い人種?
女の体抱いて忘れなさい? 女の体抱いて自信を回復させなさい?
ねぇ、あたしったら、筋に対してなんて失礼な事をしているの?
弱みにつけ込んで、「あたしを好きにしろ」?
何言ってんの、チャンスって思ったくせに!
結局あたしはプロ野球選手の筋と寝たかっただけじゃない。ファンの女の子を出し抜いて、モノにしちゃえってだけじゃない。最低。最低!
見たくなかったよ、見たくなかった。筋のエラーも、情けない瞳も。慰めようなんて嘘だ、あたしだってこんなにショックだったのに。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい…。」
大粒の涙が止まらない。くそっ…。
ごめん、本当にごめん、筋。
「どうしたの、大場さん…。せっかく慰めてくれたのに、…ごめんね。」
そう言って筋はあたしを包んでくれた。
筋…、抱きしめて欲しいのはあんたの方だろうに。
そんな簡単な事さえ出来ずに、ごめん。
あたしは莫迦みたいにごめんなさいを繰り返して泣いていた。
「ごめん、筋、…ごめんなさい…。」
かろうじて残っている理性で、たった1つの言葉を、噛み殺す。
筋。あんたが好きなの。
筋は一晩中あたしを腕枕していてくれた。
「大場さん、起きて。仕事あるでしょう?」
頭を起こすと、時計は4時半を回っている。
顔がガビガビしている。うへぇ。恥ずかし過ぎるよ。
シャワーだけ浴びて着替えた。
「今日? あぁー、駄目だろうねぇ。昨日のアレもあるし、門限破った挙句に朝帰りしちゃっちゃぁね。またしばらくファームで出直し。」
ニコニコと、厳しい事をサラリと笑い飛ばす、いつもの筋。
あんた、本当にタフ。
「またメールもするし、電話もするよ。」
そしてプロ野球選手の筋。慣れてんのなぁ、結局。そのセリフ言い慣れてる。
あたしも笑いながら言った。
「待ってるよ。また応援してやっから、オヤジへの言い訳だけ考えておきな。」
タクシーであたしのアパートの近所まで送ってもらった。
「送ってくれてありがと。じゃぁね。」
「うん。」
短い挨拶で走り去るタクシー。朝の5時を過ぎて町はもう明るく、周囲の家からは1日の始まる音がする。
御女組を気取って、あたしは筋を誘った。
でも、違うよな、御女組のあたしが、腕組のあんたに言葉を掛けるなら。
「莫ァー迦、落ち込んでる場合か! 取られたら取り返せばいいだろう!」
あの時飲み屋で、いや、その前の電話で。ううん、いっその事ドームで叫んであげれば良かった。
見送るタクシーの後ろ姿に小さく声に出してみる。莫迦、…。
そして、…あぁ、あたしはもう御女組にも戻れない自分を知ってしまった。
20030601〜20030607 ナガレバヤシ
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