野川の自然回復

(このページの写真は、クリックしても大きくなりません。) 野川には、現在は数多くの魚が住み、それを餌とする数多くの野鳥が飛来します。しかし20年前は粗大ゴミが捨てられた汚い川でした。
この汚い川が、生き返った過程を知ることは、私たちがまた、将来に対してなすべきことを考える上で重要なことだと思います。

 20年前の野川流域は、武蔵野市・三鷹市・小金井市等の9市及び世田谷区を含む都市化の最も著しい地域でした。以前の雨水は地面に吸収され、地下水となって蓄えられ、湧水となって野川に注いでいました。それが、住宅が増え道路も舗装化が進み農地も減少した結果、雨水は地面に吸収されずにそのまま野川に流れ込みます。下水が増え川に注ぐ水の量も減りました。 

 こうした状況に、流域の各市区では「何とか水量を増やしてうるおいのある水辺として復活させよう」と、せきをつくって水をためてから流したり、舗装の下の地面に雨水をしみこませる「浸透マス」などを設置したが、目に見えての成果はあがらなかったそうです。

 このため、「情報交換や協力のために流域の各自治体の横の結びつきを作り、野川の清流復活を考えよう」と流域の5市1区が協議会を作ることになりました。1989年5月のことでした。このとき同時にAMRという団体の主催で「野川ミニサミット」が開催されました。このAMRの活動が野川流域の各自治体の横の結びつきを進めたのでした。

 AMRとは、アメニティ・ミーティング・ルームのことです。1985年3月、世田谷区成城4丁目の西を流れる野川のほとりの家に発足しました。それから3年間、毎月1回大学教授などの専門家を講師として、本当のアメニティとは何か、まちづくり、都市づくりを追求してきました。
 「アメニティ」という言葉は当時はやった言葉です。しかし、この「AMR」がめざしたものは、実践とむすびついた理論でした。市民的に自由な立場から研究を行い、行政に働きかけ、提唱していきました。さきの「野川サミット」では、”野川は1本”という見地のもと、流域の各自治体が野川流域環境保全のための諸施策の現状や問題点、さらにその後の新たな方策などが提起されました。流域の自治体が一体となって、野川の自然回復に取り組み始めたのでした。

このときの野川サミット宣言は次のとおりです。
「野川サミット宣言」
 野川は文化である。
 野川は我々の社会、経済活動の営みを受けて流れている。
 野川の流れは、我々の生活、文化の現れである。
 流れを清らかにし、汚さないようにひとりひとりが努めよう。

 野川はオアシスである。
 野川は都市の川であり、
 市民にとって貴重なうるおいとやすらぎの広場である。
 みんなが親しめる野川を実現するために取り組もう。

 野川は都市を結ぶ絆である。
 野川を守り育てるため、流域が連携して取り組もう。
 そして、野川を媒介として、都市の市民の相互理解と友情を深めていこう。

野川は世代をつなぐメッセージである。
 野川は代々の世代によって受け継がれてきた。
 我々もまた、清らかな流れのある、文化の薫り豊な野川を、二十一世紀の世代へ
  伝えるため、みんなで野川を育てていこう。
  
  国分寺市長 本多 良雄
  小金井市長 大久保慎七
  三鷹市長  坂本 貞夫
  調布市長  吉尾 勝征
  狛江市長  石井 三雄
  世田谷区長 大場 啓二


 14年後の野川が、現在の状況です。市民の研究と行政への働きかけ、行政の横のつながりなどがいかに大切か、実感するところです。
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